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ラグビー日本代表の勝利の秘密は『君が代』にあり

皆さま、更新が滞ってしまって誠に申し訳ありません。
本日はラグビー日本代表のメンタルコーチをやった荒木香織さんが書いた『ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」』(講談社+α新書)から一部抜粋して紹介したいと思います。
ではでは・・

ラグビー・ワールドカップの南アフリカ戦のキックオフ直前。
君が代斉唱のとき、五郎丸選手が泣いていたのを覚えている方も多いと思います。
ほかの選手も全員が声を出して歌っていました。
当たり前の事だと思われたかもしれません。
でも、そういう光景は、かつての日本代表にはありませんでした。

ラグビー日本代表 君が代

エディさんに呼ばれてはじめて日本代表の合宿に参加したとき、私が感じたのは、「寄せ集め」というものでした。
みんな、バラバラで、たがいに遠慮もあれば上下関係もあった。
なにより選手から感じられたのは、
「なんで負けるチームに行かなければならないんだ‼︎」
そういう空気でした。

それは、ある意味、仕方のないことでした。
日本代表は、過去七回のワールドカップに全て出場しています。
でも、勝ったのは1991年のジンバブエ戦だけでした。
今の代表選手は、憶えているどころかまだ生まれてすらいなかった選手もいます。

その次の南アフリカ大会では、ニュージーランドに145点も取られて大敗したこともありました。
テストマッチ(国の代表チーム同士の試合)においても、強豪国にはまったく歯が立たず、試合を組んでもらうことすらままならなかったのです。

そんなチームに対して、いくら国の代表だからと言っても、選手は魅力を感じません。
下手に代表に入って大敗して非難されるくらいなら、所属チームで活躍したほうが良い・・選手がそう考えても不思議ではありません。
そのため、代表に選ばれても辞退する選手が少なからずいたそうです。
加えて勝ったことがないから当然ですが、海外のチームを相手にどうすれば勝つことができるか、何が必要なのかを理解している選手はほとんどいませんでした。

エディさんがメンタルコーチとして私に求めたのは、次のふたつでした。
ひとつは、「日本代表というチームを作り上げていく」こと。
そして、もうひとつは「個々のパフォーマンスを向上させる」ことです。
このふたつをメンタル面から支援してくれと言われたのです。
そこで、当時のキャプテンだった廣瀬俊朗選手、リーチマイケル選手、五郎丸選手、そして菊谷崇選手というリーダーズグループとしてエディさんが指名した四人と話をしながら、どうすればいいか考えることにしました。

そこで確認したのが、こういうことでした。
「勝ちの文化を作る」
ニュージーランドでは、一度でもオールブラックスに選ばれれば、みんなが覚えていてくれるし、尊敬される。
強いチームには勝利を積み重ねることで生まれる、そういう「勝つ文化」というものがあります。
ところが、日本にはそれが無い。
当然です。
負けてばかりだったのですから。

オールブラックス

それでは、「勝つチーム」とはどんなチームなのだろう。
みんなで考えたときに出てきたのが、「誇り」という言葉でした。
「日本代表であることに誇りはなかったのか?」
疑問に思われるかもしれません。

でも、現実に選手たちはあまり感じていないようでした。
リーチ選手は「どうかなぁ」と言っていたし、五郎丸選手も「勝ったことないからなぁ」。
「日本の代表なんだから」と周囲から誇りを持たせてもらっていたかもしれないけれど、あらためて問いかけられると、自分たちの中から湧き上がる誇りというものはなかったのだと思います。

「ならば、誇りって何だろう」
そう思ったときに、「君が代」が浮かんできたのです。
私は訊ねました。
「国歌斉唱、みんなしてる?」
「いや、あまり考えたことない」

実際に過去の試合の映像を見てみたら、誰もちゃんと歌っていなかった。
「だったら、そこからはじめてみよう」
君が代に対してはいろいろな意見や感情があるのはわかっています。
選手たちも大きな声歌うことに関しては躊躇があったようです。
ただ、スポーツの世界で、ワールドカップを目指すチームとしては、その行動は決しておかしいことではない。
リーダーたちはそう考えました。

日本代表には外国人選手やコーチが少なくありません。
そこで、「君が代はこういう歌詞なんだ、こういう意味なんだ」と説明する時間をつくり練習しました。
「スタッフと外国人も一緒になって、全員で肩を組んで歌いましょう、そうやって試合に入りましょう」
そう言ってみんなで取り組むことにしたのです。

マイケル・ブロードハースト選手なんか歌詞を覚えられないから手に「 chi yo ni ya chi yo ni」と書いていました。
「今日ちゃんと歌えないと、明日は練習させてもらえないらしいぞ」と誰かが嘘をついたらしく「まずい」と思ったようです。
試合によっては、前奏がある場合とない場合があるし、歌手の人が歌う場合もある。
そのあたりも事前に確認して、みんなで歌えるように準備をしました。

人は、何のためにそこにいるのか、何のためにそれをやるのかということがわからないと、みずから積極的にコミットしようとは思いません。
日本代表には、それが必要だったのです。

誇りというものは、周囲の人たちにつくってもらうものではないし、エディさんがつくるものでもない。
選手たちが自分自身でつくりあげていくものです。
そのための取り組みのひとつが君が代を全員で歌うことだったのです。
実際、取り組みをはじめて二年目に、テストマッチのあとである選手がこう言いました。
「外国人こーちもスタッフも、全員が肩を組んで君が代を歌っているのをみてめちゃくちゃ感動した。
士気が高まった」・・(『ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」より)

日の丸

今年はオリンピックイヤーです。
金メダルを取った選手は大きな声で『君が代』を歌ってる欲しいものですね。

・・おわり・・
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イジメ問題は憲法問題であり番長問題なのだ

日本国憲法第九条が戦争放棄を宣言している事を理由に、自衛隊を違憲だと主張する人たちがいる。
憲法の条文に則って「国際平和を誠実に希求」すれば、その高邁な理念によってすべての武力紛争は解決すると本気で信じているのか信じているフリをしているのか分からないが、そういう人たちがいるのである。
戦争が起こるたびに、軍隊を不要とする平和主義者が巷にあふれる。

だが、不思議な事に警察を不要だと主張する人はただの一人もいない。
軍隊も警察も国家が独占する暴力である事に違いはないにもかかわらずである。
警察力の放棄が荒唐無稽であるという事は、社会平和を誠実に希求しても犯罪などなくならない事を誰もが知っているからだ。
どんな社会であっても、人々が安心して日々を過ごすには、犯罪を抑止する強力な治安維持装置が必要なのだ。

生徒のイジメや自殺は公立の中学校で頻発し、私立中学ではほとんど起こらない。
なぜだろうか?
それは私立中学が秩序維持に必要な“暴力”を行使できるからである。
といっても体罰教師を雇っているという意味ではない。
私立中学にあって公立中学にないもの・・それは退学処分権だ。

私立学校では生徒の安全を脅かすような事件が起こると、翌年からその学校を受験させる親はいなくなる。
生徒が集まらなければ私立学校は倒産してしまうから、校長から事務員まで秩序維持に関して一歩も引かない態勢ができあがっている。
私立学校のイジメ対処法はいたってシンプルである。
全力で犯人を捜し出し、即座に退学させてしまう。
これが抑止力となって、生徒も“武力行使”を誘発するような真似はしなくなる。

それに対して公立中学は、義務教育によって、問題生徒を排除するという選択肢を奪われている。
どんな生徒でも平等に抱え込んでいかざるを得ないなら、これはもう警察のない社会と同じである。
教師の献身的な努力にもかかわらず悲惨な事件が続くのには、構造的な原因があるのである。
・・あまり日教組教師を褒めたくはないのであるが・・

この欠陥を補うために、かつての公立学校は民間の暴力装置を利用していた。
番長率いる不良組織である。
一般生徒にとって、番長の決めたルールを犯すことは最大のタブーであった。
学ランの長さから喫煙場所まで、生徒自身の手で厳格に規範が決められていたのだ。

夕焼け番長

多くの場合、暴力の匂い持つ教師だけが番長と対等に交渉できた。
体罰教師と番長によって裏の秩序仕切られ学校の治安が保たれていたのである。

やがて、暴力を批判する風潮の中で体罰教師は消えていった。
いつの間にか番長もいなくなった。
それと軌を一にして陰湿なイジメが社会問題化したのは偶然ではない。

「学級崩壊」の現状が広く知られるにつれて、親は子供の安全保障を真剣に考えざるを得なくなった。
何かに似ている・・そう、戦後日本そのものではないか。
「安全」はタダではないのだ。
安心して安全に国民が生活するために憲法を改正して軍隊を持つのは誰がどう考えても当たり前田のクラッカーである。

・・おわり・・

《『知的幸福の技術』(幻冬社文庫)橘玲》



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テーマ : 憲法九条 - ジャンル : 政治・経済

読書のススメ

うんと端っこの国で育った私ですから、すっごくダサい子だったはずなのに、さあまたなんでか分からないけど、生意気にも、世の中には本というものがあることを知って、だったら読んでみたいと思ったんです。
ブラブラ過ごしている昼や、夕ごはんのすんだあとに、姉さんやママたちが、ずっと前に読んで覚えていた、光源氏という方のお話をしているのを耳にする度に、嗚呼、一度でいいから読んでみたいものと、いよいよドキドキしてくるの。
もうたまらなくなって、誰も見ていない時に、仏様に手を合わせて、「お願いです、どうぞそのような本のあるところに行かせてください。本を読ませてください」と、心を込めて祈りました。

西暦1008年に生まれた、「菅原孝標の女(すがわらのたかすえのむすめ)」としか名前の知られていない女性が、晩年に至って回想した日記、いわゆる『更科日記』の冒頭の部分を、轡田隆史さんが橋本治さんの「桃尻語」の文体を真似て訳した文章を更にわかりやすく微調整を加えた文章です。
原文は、もっともっと切迫感があって、心を込めて祈る平安の少女の姿が浮かび上がってきて胸を打ちます。

京都から、上総、現在の千葉県に転勤してきた中流貴族の父と継母と姉との4人暮らし、継母と姉は、京都にいる時に読んだか、あるいは人に聞かされた、評判の『源氏物語』のアレコレを話し合っては楽しんでいる。
まだ10歳そこそこの妹は、それを耳にしては、主人公の「光源氏」という人物に心ときめかす。

源氏物語

『源氏物語』は、彼女が2歳の頃完成していた、
紫式部が書くやいなや、最高権力者の藤原道長は奪うように読みふけり、娘の中宮彰子にねだられて写本作りを命じた。
写本は宮中の貴族の女房たちの間で評判となり、写本を更に写本する者が続出して宮中内はたちまち源氏ブームとなった。
空前の大ベストセラーである。
しかし、なんせ当時は紙は貴重品である。
しかも。墨と筆で写本するのであるから、部数は限られていた。
幸運にも入手できた女房は夢中になって熟読したが、多くは一人が朗読するのをグループで聞いて楽しんだ。

だから、遠い上総に暮らす少女にとって、その大評判の物語を読むなんて、夢のまた夢なのであった。
早く読ませてくださいと仏様にただ祈るしか術がない少女なのだった。
そして、その切実な夢は4年後に叶えられた。
家族とともに京に戻った少女は、たまたま同じ頃地方から京に戻ってきた叔母から『源氏物語』を贈られたのである。
少女はもう夢中である。
そのくだりを現代語に訳すれば、このような感じである。

それから私は、人にもあわず、昼はもちろん夜も、目が覚めている限り、灯を近くにともして、ただただひたすら読みふけるばかりなのです。

うーむ、どうも物足りない。
切迫感が消えている。
原文も同時にあげておこう。
繰り返し読むと、少女の気持ちが伝わってくるような気分になるはずです。

はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几帳のうちにうちふして引きいでつつ見るここち、后の位もなににかはせむ。
ひるは日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火をちかくともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえうかぶを・・


14歳の少女「菅原孝標の女」はかくして『源氏物語』全54帖を暗記するまでになったのだ。
やがて、自分も日記文学を残すことになり、はるかのちに、紫式部につづく偉大な作家と評価されることになるのである。

いまや『源氏物語』は世界最古の長編小説である。
しかも現代文学の傑作選の中に放り込んでも、いささかの遜色もなく燦然と輝く金字塔としてそびえ立っている。
最も古く、最も新しい、そのような長編小説を、1000年の昔、14歳の少女が仏の慈悲にすがって、ついに夢叶い読むことができたという、まことに感動的な事実を、今、我々が知る事ができるのは、ひとえに彼女が書き残した『更科日記』という書物のおかげなのである。

1000年も昔に、ただ「菅原孝標の女」としか名前の伝わらない女性が、夫の死後、52歳の時に少女時代の時以来アレコレと回想した日記が、1000年という時空を超えて、今我々を感動させるのは、それが『更科日記』という名前の書物として伝わり、繰り返し読み続けられてきたからである。
「光源氏」のような男性との恋愛の夢も、出世の夢も叶わず、ただ平凡な人生を送った一人の女性が、いま現実に、我々のなかに生きているのである。
そのひたむきな生き方が、タイムマシーンのように時空を超えて迫ってくるのは『更科日記』という書物の存在があるからである。

書物がなければ、1000年前の平凡な「文学少女」の人生は、我々の眼前には存在しないのである。
つまり、文字で記された書物がなければ、過去は、わたしたちのいまに存在してないのである。
過去がなければ現在も無い・・

まことに書物は偉大な存在である。

・・おわり・・

《『「考える力」をつける読書術』(三笠書房)轡田隆史》



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テーマ : 愛国心 - ジャンル : 政治・経済

下町ヒコーキ(ドリームチーム編)

日本経済は長らくデフレ不況にあえいでいた。
物価が下がり、企業が設備投資を行なわないと、自然と景気が落ち込み、日本人の賃金も低くなっていった。
その繰り返しをデフレ・スパイラルと呼ぶのであるが、日本はこのデフレ不況により低迷した時期が20年も続いてしまった。
この事は、戦後日本のお家芸であった製造業の「ものづくり」による限界が見えてきたように日本国民には映って見えた。

しかし、日本の明るい兆しが見えないなか、密かに着々と「GHQ体制からの脱却」を目指してきた企業があった。
三菱重工業の子会社である三菱航空機である。
平成27年11月11日、三菱航空機の開発した国産初の小型ジェット旅客機「MRJ」(三菱リージョナルジェット)が、愛知県営名古屋空港で初飛行に成功し、日本中が歓声と喜びに沸いたのだ。

MRJ 初飛行

プロペラ旅客機「YSー11」以来の「53年ぶり」の国産旅客機であるMRJが、離陸時にフワッと機体が持ち上がった瞬間、日本人に大きな感動をもたらした。
林基雄経済産業大臣は、「日本の航空機産業の新たな幕開け」、「日本の成長を支える原動力となる」という談話を発表し、政府としても自国開発をバックアップする意向を示した。

しかし、国内のマスメディアは、日本の航空機産業が終戦直後からマッカーサー率いる「GHQ」の「航空禁止令」によって、製造から飛行まで禁止されていた事実は報じても、その「航空禁止令」の真の狙いや具体的な中身については、ほとんど触れてはいなかったのである。

確かに、戦後70年かけて、ようやく「二機種目」となる日本国産の旅客機が開発され、航空関係者の努力が実を結び、日本の大空を飛ぶのは喜ばしい出来事である。
しかし、少し考えてもらえばわかるが、トヨタやホンダ、日産、マツダ、スズキなど日本の自動車産業がこれだけ世界を席巻しているのに、日本の航空機産業だけがなぜこれほどまでに外国の航空機開発に出遅れ、「納入業者(サプライヤー)」に甘んじているのか。
日本は世界有数の技術力を持ちながら、5度も初飛行計画を延期せざるを得なかったかという本当の理由を日本人は知る必要があるのだ。

「航空禁止令」とはいったいどういうものなのか?
それは、わずか2本のGHQによる指令から始まった。
まず、「SCAPINー2」と呼ばれるマッカーサー指令が出された。
これは軍用の航空禁など日本の武装と見られるものは、すべて解除され、製造・所有を禁止させられた。
戦闘機だけでなく、支援機や輸送機などもすべてそれに含まれていた。

そして「SCAPINー301」と呼ばれる指令も出された。
そこには「民間航空廃止に関する覚書」というタイトルで、軍用機だけでなく日本の乗客を乗せる民間航空機が空を飛ぶこと、そして航空力学を研究し、航空機を開発することなどが一切が禁じられた。
実際に日本の航空機はGHQの管理の下、すべてスクラップされるか燃やされていた。

「零戦」を作った三菱重工業の航空部門の本社のあった愛知県内では、GHQの米兵たちが飛行場の格納庫にあった航空機を見つけては、「ミリタリー!(軍用機)」と叫び、日本人が「シビル!(民間機)」と抗弁しても、聞き入れられず、次々に廃棄させられていったという。

「リストと作業計画を作り、すべて解体せよ。」
現場では一方的にこう命令された。
飛行機に使用された鉄などの金属やエンジンは、船舶などに転用され、ガソリンで焼却処分にさせられたのである。
民間の航空機関係者はその姿をみて悔しさで涙が溢れてきた。
こうして、民間航空機は壊滅状態に陥ったのである。

通称「零戦」、正式名「零式艦上戦闘機」を設計。開発し、世界の航空史に名を残し宮崎駿監督のアニメ映画にもなった堀越二郎の働いていた三菱重工業の「時計台ビル」は、今回はMRJを設計したビルなのである。

風立ちぬ

戦時中の空襲から逃れ、そのまま残っていた古いビルだが、GHQ占領下の「航空禁止令」は、米国側が日本の優れた航空技術力を否応なく低劣化させる意味があった。
例えば、戦後日本では、たとえ大学でも航空力学を研究できなかったために、その後米国を中心に世界の航空産業が続々とジェット旅客機を開発、進出していくのを、指をくわえて見ているしかなかった。
戦時中の花形的存在であった三菱重工業の航空技術者たちは、なんと戦後は「鍋や釜」まで作らされ、糊口を凌いでいたというのである。

当時世界でも1、2位を争う大きな航空機メーカーであり、名機「隼」を開発した中島飛行機。
その中島飛行機は、大正8年に誕生し、戦後のGHQが行った「財閥解体」によって会社ごと解体され、昭和25年に消滅する。
調布市から府中市にあったその広大な敷地は、マッカーサーによって没収され、いまでは国際基督教大学になっている。

中島飛行機は「中央線文化」を花開かせた。
大正14年、中央線の荻窪にエンジンの製造・開発を主眼とする「東京製作所」を作った。
昭和13年には現・武蔵野市に「武蔵野製作所」を、昭和18年には現・三鷹市に「三鷹研究所」を設立。
中央線沿線は、中島飛行機の従業員たちであふれかえっていたのだ。

中島飛行機の特徴は「技術者重視」と「チャレンジ精神」、そして風通しが良く、自由な雰囲気を大事にする社風にあった。
「自由な気風がなくては良い技術は生まれない」という思想を持っていた中島知久平を社長とする同社では、他部門の従業員たちと上下関係なく自由に議論をし、お互いを「○○さん」とか、ニックネームで呼び合った。

同社の技術者は、「本物の技術者は、頭の中でやるべきことをやっている」と考えた中島知久平社長の了解の下、1日の大半をタバコを吸いながら、空を眺めているという行動も許されていた。
だからこそ「隼」「冨嶽」など想像を超えた日本の航空機が完成したのだ。

戦前の日本人の「技術者魂」は、「日本独自の良いものを作りたい」という欲求によって形成されていた。
実際に、「零戦」の堀越二郎は、昭和7年に国産飛行機や国産戦闘機が作られ始めた時代をこう振り返っている。
「これまでのように外国機のコピーではいかん。日本の航空機を作り出さねばならない・・という方針に海軍が転換した記念すべき年が昭和7年だった。」

帝国海軍が正式採用した「零戦」は、米国からは「ゼロ・ファイター」「デビル」などと呼ばれて恐れられていた。
昭和17年6月、アリューシャン列島のツンドラ地帯に不時着した「零戦」の事故機の機体を、米軍が米本国に持ち帰り、その性能の弱点を短時間で徹底的に研究されるまで、まさに無敵の戦闘機だったのだ。

その零戦の開発時、海軍が三菱側に要求したのは「徹底的な軽量化」と「高度3500メートル、スピード370キロ以上」そして「継続距離1000キロ以上の足の長さ」という無茶なものであった。
そこで堀越らは、日本の住友金属工業が開発したばかりの超々ジュラルミンを機体に使い、防御力をほとんど犠牲にして最軽量化を実現させた。
機体への空気抵抗を少なくするため、操縦席を全面風防化し、脚を完全に引き込み式にした。
こうして当時の技術の粋を集めた零戦は、高度6000メートルでも560キロを出し、高速と巡航速度での航続力は、これまでの戦闘機の常識を完全に覆し、10時間をはるかに超えていたのである。
さらに、その美しいフォルムは、見ているも側を圧倒する「日本の美」そのものだった。

零戦

いま三菱(航空機)が開発したMRJのメリットは、「軽量化」と同時に「居住性」と「燃費の良さ」「機体の強度の強さ」に変わっている。
とりわけ、かつてジュラルミンで作られていた胴体の素材は、いまは日本の東レを中心とするカーボン(炭素)でできておりその他の部品についても、ほとんど国産製造が可能なところまで来ているのだ。
だからこそ、下請けの町工場からいまの三菱航空機の設計デザイナーの中には、MRJ開発に携わるまで堀越二郎の名前も全く知らなかった者もいたというが、今も昔も日本の航空技術者たちが、優れた技術と合理性を徹底的に追及する姿勢は全く変わっていないのである。

しかし、占領後禁止期間が8年に及んだ日本の航空技術者やパイロットたちは、「国産航空機はもう二度と作れない」「日本の空はもう二度と飛べない」と思い込み、その力を他の産業に転化させた。
戦前に「航空機王国」を誇った愛知県の航空機業界は、技術移転先として東海道新幹線などの鉄道開発に、あるいはトヨタなどの自動車産業に活路を求めたのだ。

今回のMRJの開発でユニークなのは、まず中島飛行機の後継会社である富士重工が開発に携わっていることだった。
中島飛行機の社長で国会議員でもあった中島知久平は、GHQによる公職追放令で追放され、失意の中、入院中の病院で死亡した。
GHQの占領後に中島飛行機は廃止、広島と群馬県太田市を中心に自動車産業に転換し、あの「スバル」で有名な富士重工へと姿を変えていたのだ。

そのような逆境に遭いながらも、富士重工は自衛隊の練習機などの開発を少しずつ手がけていたのだった。
MRJの初飛行は、日本の誇る二大航空機産業である零戦の「三菱」と隼の「中島」が手を組んだまさにドリームチームだったのだ。
日本の航空機産業の先人たちの想いや魂も十分に感じていた。
日本政府も1千億円近い開発費を補助していた。
だからこそ、5度ものテスト飛行を中止してでも、失敗は絶対に許されなかったのである。

「戦前の日本は何もかもが悪かった」「物量に劣るのに、なぜ米国なんかに戦争を仕掛けたのか?」・・
これまで日本の戦後史の研究というのは、戦後の自虐史観を基にした「謝罪」と「反省」の上に立つ考え方が圧倒的に多かった。
つい最近まで「日本は何の世界でも世界一になどならないほうがよい」「何故、2番じゃダメなんですか?」などと素っ頓狂な事をいう政治家や知識人たちがハバを効かせていたが、戦時中までの日本の産業界は、いつも「世界一」を目指していたのだ。

もちろん戦前、戦中の日本の航空機産業は、間違いなく世界一、ニを争う分野であった。
それが、占領後の昭和27年までの7年間も、航空機の開発・製造を禁止された。
さらに東京大学を始めとする応用物理学の航空力学は、実験や研究をすることすらできなかった。

また、日本独自の航空管制は、昭和34年までの14年間という長い間、日本の航空界はGHQから抑えられてきた。
日本の空は制空権を抑えたい米軍の手にあったのだ。
いま現在でも米軍の指揮下にある横田基地や嘉手納基地などがあり、未だ完全に取り戻せてはいないのである。

いま、戦後常に航空先進国だった欧米を周回遅れからスタートして追いかけ、ジワジワと間合いを詰めて日本がようやく最後尾にまで追いついたのは、日本の航空関係者たちの「日本の独自のものを作りたい」という強い想いとそれを支える技術者たちの絶え間ない渾身の努力だったのである。

そもそも「鳥のように空を飛びたい」と考えて始まった日本の航空機産業の始まりは早かった。
天明ー寛政年間の1788年、「岡山の鳥人」浮田幸吉が「羽ばたき機」で空を飛んだ。
また、あのライト兄弟に先駆けた1891年、愛媛県出身の帝国陸軍軍人、二宮忠八が「世界初のプロペラ機」を設計していたのは有名な話である。
結果的には、陸軍に実用化申請が通らず、ライト兄弟が開発したエンジン式の飛行機が1903年に先を越して世界初の長距離飛行を実現するのである。
日本人の空に向かう独創性や基本の開発能力は極めて高かったのだ。
日本全国に「鳥人」や「飛行機野郎」と呼ばれる人たちがいたのである。

実際に、第二次世界大戦でイギリス最強の戦艦プリンス・オブ・ウェールズや巡洋艦レパルスを撃沈したのは、世界に先駆けて「戦略空軍機」として開発された「九六式陸攻」と呼ばれる三菱重工の陸上攻撃機だった。
エンジンは国産の三菱製であり、その制作には、堀越二郎に並ぶ手腕持っていた本庄季郎主任設計士らの設計デザイナーの存在があった。
そして、彼らを影でしっかりと支えていたのは、「技手」や「図工」と呼ばれる「無名の技術者たち」だったのである。

現在、航空機の設計デザインは、立体図を簡単に描けるコンピューターグラフィックスを使うのが当たり前であるが、戦争当時の日本は「技手」や「図工」に携わる従業員たちが平面図に手で描いたのである。
その正確な製図の線引きや、強度計算と構造計算は、これまた世界一、二の技術を誇っていたのである。

確かに、最初日本は外国の力を借り、自分たちがそれを応用できるようになるまで研究し尽くす。
日本の航空機産業も、最初はドイツやフランスの技術を輸入し、設計士などの人材も外国から登用して始まった。
だが、その後、自分たちで作れるようになると、必ず自前で何とかするのが日本である。
これは何も航空機産業に限った話ではない。
そこには 「自立」「独立」を目指す「普通の日本人」の理想の姿があった。

いま、この「普通の日本人」が、堂々と国内で航空機製造し、航行できるようになった。
過去に囚われた価値観を突破し、米国に押さえつけられてきた「日本の空」を自分たちの視界に取り戻す日はそう遠くはないはずである。
そして、世界の空に日本製航空機が溢れる未来を予言しておこうと思う。
日本人の気質を考えれば世界一を取り戻す事は必然だからである。

GHQシステムからの脱却はすぐそこまで来ているのだ‼︎

・・おわり・・

《『GHQが洗脳できなかった日本の「心」』(KKベストセラーズ)山村明義著》



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桜の下でワシも考えた〜最終章〜

前回は中山成彬氏の少年時代のお話でした。
今回は奥様の中山恭子議員にまつわるエピソードです。
日本の話ではなく、遠く離れた中央アジアのある街で起こった出来事です。
日本人ならば知っておくべき桜にまつわるエピソード其の四、今回がこの桜シリーズの最終話です。
それでは、最終回じっくりとお楽しみください。

日本から遠く離れた東欧の国、ウズベキスタンの首都タシュケントという街のお話です。
ウズベキスタンというのは、1991年旧ソ連から独立した中央アジアではリーダー的存在の国です。
面積は日本の1.2倍、人口は2200万人。
タシュケントはその首都で人口は220万人、近代的ビルが建ち並ぶ大都市です。
その都市にウズベキスタンで一番有名なナヴォイ劇場というレンガで造られたビザンチン様式のそれはそれは立派で美しい劇場があります。
劇場の左壁のプレートにはウズベク語、日本語を含む四カ国語でこう刻まれています・・

『1945年から1946年にかけて
極東から強制移送された
数百名の日本国民が、
このアリシェル・ナヴォイ ― 名称劇場の
建設に参加し、その完成に貢献した。』

ナヴォイ劇場 プレート

そうです、この劇場は戦後ソ連の捕虜となった日本人抑留者の手によって作られたものだったのです。
第二次世界対戦が終わった1945年、25113人の日本人捕虜がウズベキスタンに移送されそのうち9760余名がタシュケントに移送されました。
大きな犠牲を払いながら数年にわたり日本人捕虜が都市建設に貢献したのです。

その中で今回のテーマであるナヴォイ劇場の建設に携わったのは永田行夫元陸軍技術大尉率いる450人からなるタシュケント第四ラーゲリー隊でした。
隊長の永田氏は当時25歳だったそうです。

永田氏は当時の事をこう振り返ります

「無論、不幸なことには変わりはない。
食事は常に不足して、私も栄養失調で歩くのがやっとの時期がありました。
南京虫には悩まされ、月一回のシャワーは石けんを流し終える前に湯が切れることが常でした。
冬はあまりに寒いので建設現場の足場板を持ち帰って部屋の薪にしていたのですが、後にばれて厳禁となりました。」

ウズベキスタンに送られた25113人の内わずか2年で栄養失調や過労で813人の犠牲者が出たことを考えれば、どれほど過酷な環境であったか容易に想像できます。

おそらく体力は限界を超えて気力だけで作業をしていたのではないでしょうか。
彼らはある言葉を合言葉のように言い合って頑張っていました。

「生きて日本に帰って、サクラを見よう。」

そんな地獄のような過酷な環境の中、日本人抑留者は実直、勤勉に仕事に励み予定工期を大幅に短縮し、わずか2年で威風堂々とした劇場を完成させました。
完成した時、450人いたラーゲリ隊のうち79人が帰らぬ人となっていました。

ナヴォイ劇場 天井

ナヴォイ劇場 彫刻

このきれいな天井の模様も、
この繊細な彫刻も、
全て日本人抑留者が細部にまでこだわって作ったものです。

強制労働させられている身分にもかかわらず真剣に責任感を持って仕事に取り組む日本人にやがて現地のウズベク人は好意と尊敬の念を持ち始めます。

ウズベキスタン中央銀行副総裁のアブドマナポフ氏は子供の頃日本人が働く姿を見たことがあるそうです。
子供心にいつも疲れて帰ってくる日本人抑留者を見て同情した氏は友人と一緒に何度となく宿泊所の庭先に自家製のナンや果物を差し入れに行きました
するとその数日後に必ず同じ場所にあるものが置かれていたそうです
それは精巧に作られた手作りの木工玩具でした

木工玩具

強制労働で疲れ切った抑留者という身分であったにもかかわらず受けた恩に精一杯の謝意を表明しようとした日本人抑留者の行為はいつしか道徳的規範としてウズベク人の間で語り継がれるようになっていったそうです。

やがて、時は流れ・・

完成から20年後の1966年・・

タシュケントの街を未曾有の大地震が襲います。
マグネチュード8の巨大地震です。
この地震でタシュケントの建造物の約3分の2は崩壊しました。
周囲の建物が瓦礫の山になってしまったなかそれまでとまったく変わりなく凛として立つナヴォイ劇場をタシュケント住民は日本人への畏怖と敬意の念を持って見上げたそうです。
そして、ナヴォイ劇場は被災者の避難場所として多くの人命を救いました。

ナヴォイ劇場2

そういう経緯もあってか 多くのウズベク人が 子供の頃母親から、
「日本人のように勤勉でよく働く人間になりなさい」
と言われて育ったといいます。

また、ソ連時代、日本人墓地をつぶして更地にするようにと指令が出されたそうです。
ソ連政府は捕虜使役で劇場が作られたことを隠蔽したかったのです。
しかし、ウズベキスタンの人はその指令を無視します。
ここは日本人が眠っているのだからと墓地を荒らさずにきれいな状態で守ってくれました。

ウズベキスタン独立後、中山恭子特命全権大使がウズベキスタン政府に日本人墓地の整備をしたいとお願いしたそうです。
スルタノフ首相(当時)からは直ぐに答えが返ってきました。
「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行う。これまで出来ていなかったことは大変はずかしい。さっそく整備作業に取りかかります」
ウズベキスタンでも呼応するかのように、素晴らしい提案がありました。
コジン・トゥリャガノフタシケント市長(当時)からの、「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案でした。

現在この公園は「さくら公園」と呼ばれているそうです・・

桜

今では、夏になるとナヴォイ劇場はタシュケントの若者たちのデートスポットとして賑わっています。

最後に麻生太郎氏が国会で紹介したウズベキスタン大統領だったカリモフ氏の言葉を紹介します。

私は子供の頃毎週末になると母親に日本人捕虜収容所に連れて行かれた。
母親が私に言った事はいつも同じだった。
『せがれよご覧、あの日本人の兵隊さんたちを。
ロシアの兵隊が見ていなくても働く。
人が見ていなくても働く。
お前も大きくなったら、必ず人が見てなくても働くような人間になれ。』
おかげで私は母親の言いつけを守って、大統領になれたのです。



日本ってスゲエと若い人達に誇りを持って欲しくてこの桜シリーズを始めました。
これにてチャカポコ♪の桜にまつわる話は終了です。

今年の花見は今までと少し違ったものになれば幸いです。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。

・・おわり・・



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